ボランティア元年からも17年。

阪神大震災は後にボランティア元年といわれるきっかけとなりました。

あの日、たくさんの命を救ったのは警察や自衛隊といった公の組織はもちろんのことです。でもそれだけではありません。その日まで普通に生きてきた、社会とはとか、奉仕とはとか、そんな難しいことを考えたこともなく生きてきた、リュックを背負った若者・学生たちでした。

「自分たちにも何かできる」という、自己実現と社会貢献が両立するということ、自らが社会の中で生きているいうことをリアリティを持って感じさせてくれる原体験となったといわれています。「新しい公共」の最初の萌芽はこういうところから始まったのだと言えるのだと思います。

僕が関西の大学に入ったのは96年。この震災ボランティアを経験した先輩方が社会を舞台に活発に活動されている姿がまぶしく映りました。

次の冬、ロシアのタンカー「ナホトカ号」が日本海に沈み重油が流出する事故が起きます。…先輩達は何百台ものバスを全国で仕立てて、学生の仲間たちを募りボランティアへと毎日毎日人を送り込みました。それは確実に、阪神大震災でのしんどい経験を活かした姿でした。そのお手伝いを少しだけ、ほんの少しだけさせていただきながら、その一員となれたことを誇りに思いました。

この時、汚い油まみれの雨合羽に身をくるみながら寒い冬の海に身をかがめてこびりついた油を木のへらで取り除くという延々の作業を僕の隣で行っていた三十代前半のお兄さん(今の僕の年齢ぐらい)が、後の福山哲郎官房副長官。僕が初めてであった政治家の卵でした。

僕が、社会とかまちづくりとかに目を向け始めた原点は多分ここにあります。そのことが一つの根っこにあって、学生時代のさまざまな活動があり、やがて政治の世界へとつながっていきます。

あの、社会の変化があり、そして今の僕がいます。

3・11の震災はかなしくつらい出来事であることに変わりはありません。
しかし、今度もそこから何かを得なくてはならないと考えています

 

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お互いさまのもちつもたれつ。1月17日に寄せて。

1月17日、阪神大震災から17年が経過しました。僕は5:46、近畿の方向に向かい黙祷をして今日一日をスタートしました。今年のこの日は、今までのそれと違って特別な祈りをささげずにはいられません。3月11日の震災直後、僕の所に舞い込んできた話は神戸の皆さんから茨城・東北への支援のお申し出でした。茨城空港の開港により神戸空港と結ばれたその縁で、かつての震災を経験した方々は「今度は恩返しの番」と動き出して下さったのでした。その日から僕の選挙事務所は神戸と茨城北部、そしていわきを結ぶ支援拠点と変わりました。

スカイマーク社さんのご協力により毎日大量の段ボールが茨城空港に届けられました。
それを毎朝受け取りに行き、事務所に戻り仕分けをして、現地ニーズとのすり合わせを行いながらトラックに詰めなおしてスタッフたちと一緒に毎日毎日常磐道を北上したのでした。
(あれ?選挙準備は…??といわれながら)

…神戸の皆さんの段ボールに詰まっていたものは、子供のおもちゃや麺棒、みみかき、つめきりなど、一般の支援物資とは一味違ったもの。かつて避難所暮らしをされていた方々だからこそわかる「必要なもの」でした。段ボールに書かれた励ましの言葉はさらに心を癒してくれました。

あの段ボールの山たちは、モノ以上に心をつないでくれる役割を果たしてくれたのだと思います。いわきの住宅地の中でおばちゃんたちと交わした会話が今でも印象深く残っています。

「いやぁー水戸から来てくれたのけ?んじゃ、おばちゃんたちは水戸でなんかあったら今度はかけつけっかんね」

「実は物資は神戸のかつての避難民の皆さんが送ってくださったんですよ」

「じゃぁ、神戸でまた何かあったらあたしらがんばんなくちゃな」

とても素敵な会話でした。
その時、感じました。必要なものは「1to1」の関係だと。
お互いさまの持ちつ持たれつ。

防災の施設も、非常時の備蓄もその整備は本当に大事なことですが
減災の視点を持って他市、他人とのお互いさまの関係をいくつ普段から
作っておけるのかということが本当はもっと大事なことなのではないでしょうか。

そのつながりが命綱。
その命綱をどれだけ沢山の「外」と結ぶことができるか。

これまでの「都市間交流」「姉妹都市」などという仕組みをもっともっと
力に変えていく必要があると感じました。

その根底は「こころ」です。

だからこそ、今朝は心からの感謝と心からの哀悼の思いを込めて黙とうをささげさせていただいたわけです。対岸の火事をわがこととして大事に大事に伝え祈ることが大事だと思います。

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節目に。

平成23年も大晦(おおつごもり)。

今年最後のお天道様が西の山へと沈もうとしています。
僕はこのときが一年の中で一番深くて重い時間だと感じています。

この一年のことを振り返り、反省し、思いをめぐらし、
次にこのお天道様が空に上る時にはすべての穢れを落とした
まっさらな時間が始まるだろうという、どこか厳かな気持ち。

「リセット」の時間。
落葉ののちの漆黒が身と心を清め、数時間後には新たな
エネルギーに満ちた赤い陽がまた昇ります。

昨年のいまごろ、今年のような激動の、
そして悲しみの一年があけるとは
誰が想像していたでしょうか。

いや、いまだって
新しく明ける一年がどうなるかなんていうことは
まったく分かりはしません。
そういった意味では去年も今年も来年も
何も変わらないのかもしれないとも思います。
それでも、先がどうなるかわからなくても
「おめでとう」と祝うのです。

節目節目を大事に生きるのが「日本人らしさ」の一つかもしれません。
四季がめぐり、秋分、春分、夏至、冬至という二十四節季があります。
その節目節目で息を整えて新たな季節を迎えるという独特の
リズム感が暮らし方の底に奏でられていて、
その節目を一つ一つと進むことを喜びとしてきました。
過去とのリセットであり、でもつながり、そしてめぐっている。

平成23年3月11日は、悲しく辛い記憶となりました。
そこからの毎日、不安の雲に押しつぶされそうな日々が続いています。
しかし、この節目を生かされた私達は大事に大事に変化のきっかけと
していくことが大事なのだと思っています。失われた数多くの命に
手を合わせながら。

震災直後に訪れた東北の街、沿岸の町はリセットされた場所でした。
寒空の下、失われた街を見ながら都市の再生の姿を思いました。
また、これまで「地域」などというものにいっぺんの興味も持たなかった
同世代の仲間が、熱く故郷を語り、手探りながらも動き出そうとしている
姿に出会いました。
彼らは地元への徹底的なこだわりを胸に、
前例に縛られることなく手探りで動き出していました。

そこで考えました。

私達の水戸も多くのインフラを失い、市役所庁舎を失い・・・
この「節目」に眼を瞑り、過去からのなんとなくの継続をしていくことで
良いのだろうか。私達の世代が節目を活かし地域を背負う時なのではないかと。

その頃、水戸市役所内部では現場の若手職員たちの頑張りが続いていました。

 水道を復旧させようと三日三晩
 震災以来一度も家に帰ることなく走り回る姿
 
 寸断された道路の復旧の為に
 『大きな声』『エゴ』の横槍と戦いながら的確な順番で作業を進める姿
 
 いつ来るとも分からない救援物資にいらだつ
 避難所の市民に頭を下げ続ける姿

誰もが被災者であるにもかかわらず、彼らは職務に一生懸命でした。
一段落した頃、ある若手職員が僕に眼を潤ませながらこういいました。

「初めて市民にありがとうを言われました。市民のために働いている
 ということが認めてもらえたのが嬉しくて・・・」

その一方で、政治の現場は相変わらずでした。

とある市議会の日、古参議員の一人が手を上げてこう発言しました。
「俺の支援者が避難所で、俺の名前を出して弁当が欲しいといったんだ。
 そしたら担当職員が後へ並べといったんだ。偉そうに。
 その職員が誰なのか、責任は誰が取るのかはっきりさせろ」
こういうのが、この期に及んで跋扈している状態を続けてはいけないと
心ある仲間達と改めて思いを固めました。

また、何でもかんでも職員が悪い、市役所が悪いといっているのも
よく政治家がやることですが、耳を塞ぎたいほどでした。

これまで公務員というと世の中の風潮もありどこか肩身が狭かったといいます。
そんな彼らが仕事への喜びを感じることができた。
自信を持って責任感を持って仕事ができることが何よりも大事です。

この震災を現場で体験した世代がやがて彼らが偉くなったときに、
役所は変わる、この水戸は良くなると確信させてくれるものでした。

僕はそんな彼らと本気で仕事がしたくて、街を創っていきたくて
これを機にすべてをゼロから見直し、再構築したくて
「市長選」への挑戦を決意しました。5月10日に記者会見で出馬表明、
投票日まではたった三週間しか残されていませんでした。

僕の当選はほとんど奇跡。
それでもこの大きな挑戦が誰かを勇気付け、
この節目に何かを始める背中を押すことができればそれで本望、
街が動き出すその導火線になることも僕の役割と腹を決めたのでした。

失ったものもたくさんあります。
帰れなくなった場所もあります。
それでも進むことを選びました。
だってあした、この節目の先に何があるか分からなかったから。

14167票。惨敗でした。
この挑戦が何を残すことができたのかはわかりません。
5月のあの高揚感から半年が経過した今、
冷静に見ればまったく無謀なことでした。
勝手に熱くなっていたのかもしれませんが、でも後悔はありません。

少なくともこの9ヶ月で
街の中にはたくさんの新しい人のつながりやいろんな企画へのチャレンジが
増えたように思います。特にそれが僕の挑戦と何の関係がなくとも
プレイヤーが増えるという望んでいた地域社会が近づいてきていることは
それはそれで嬉しくおもっています。

水戸に戻ってからの9年、NPOとか市民主導事業とか、あしたの学校、商店街とか
といったかたちで蒔いてきた種が芽を出し、実を結び、まちのいたるところで
見られることは僕のひそかな喜びです。

落選から半年。社会を学び、人を学んだ日々でした。
そして多くの方々に支えられた毎日でした。
覚悟はしていたものの、通帳を見ながらなんとも生きることが
恥ずかしくなったりすることもあるそんな毎日でした。
特に無収入の僕と文句一つ言わず付き合ってくれた家族には
本当に感謝、改めて言葉にはしませんが。

平成23年。
僕にとっても大きな節目となる一年でした。
こんな年になるとは思っていませんでした。
特にこの半年は、33年の人生、13年の政治人生を振り返り
漆黒の中で身を清める時間であったのかもしれません。

明けて、平成24年。

僕は、1月1日に「株式会社グロービス」 

http://www.globis.co.jp/

に入社し、
5日より「代表室 渉外/プログラムマネージャー」に着任することとなりました。

グロービスは社会の創造と変革の担い手となるヒトをはぐくむ事を
目指した大学の経営とファンド事業、人材育成事業を行う
創業20年のベンチャー企業です。

人づくりこそ地域再生の鍵と訴えてきた僕にとっては
本当にありがたい学びの機会でもあります。

毎日水戸から通うことによって、これまでの自分に足りないものを
少しでも補えるようなはじめてのサラリーマン生活としたいと思います。

毎週木曜日21時のラジオや僕自身の後援会の活動は継続してまいります。
根っこがどこにあるのかをきちんと意識しながら、街の中の様々な
プロジェクトにも引き続き参画し、また新たな種まきも続けていきたいと
思っています。

僕はこの水戸が大好きです。
アホか!ってくらい愛しています。
この水戸が良くなってほしいと願っています。
そしてそのために
自分にできることは何でもしたいと、本気でそう思います。

市長にはなれませんでしたが、政治を引きずるつもりもありません。
高橋市長には引き続き熱い思いをもって、僕の思いも飲み込んで
新年の大胆な新しい予算を編成し、リーダーシップを発揮して
ご活躍いただきたいと心から思っています。

そして僕は、またいつか訪れる機会までしっかりとじっくりと充電を
続けていきます。

情熱を失わず、志を胸に、前へ。

                        平成23年12月31日
                        川 崎 篤 之
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